坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

こんにちは。シングルマザーのRainyです。

春を待てずに動き出したビカクシダ・ヴィーチー。最近出てきた胞子葉の先っちょが赤子の手みたいで尊い↓

相変わらず寒いけど、陽の光がなんとなく春めいてきた気もするこの頃。あったかくなって、植物の生長を見るのが楽しみだな。

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坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

心理学(特に社会心理学)を学んでいると、心理現象を背景とすることわざに出会うことが多い。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは「何かを憎むと、それに関連する全てのものが憎くなってくること」を表すことわざ。人間らしいバイアスのかかった心の動きを、さも上手く言い当てているなあ、と思う。

このことわざの背景には「あるものの一面について良い・悪いという印象を持った時、関係のない事柄についても同じような評価をしてしまう」という心理が働いている。心理学では、これを「ハロー効果」と呼ぶ。

そのような現象は日常生活でかなり頻繁に体験しているような気がするが、最近「袈裟が憎いと坊主も憎い」という状況を体験した。

具体的には。とある人の袈裟(厳密には「袈裟」ではないけれど笑)がどうしても受け入れられなくて、その人の行動全般を不必要に批判的に見てしまう、ということだ。

こういうのってなんだか既視感があるなあ、と考えていると、中学校の頃のことを思い出した。中学校にはいわゆるスクールカーストがあって、荒れに荒れていた私の学校では、不良っぽいメンバーがカースト上位を占めていた。

休み時間になるとわざわざ運動着から「ガルフィー」という犬のジャージに着替え(休み時間が終わると運動着に戻る笑)、昼休みは英語の先生のCDプレーヤーを借りパクし爆音でエミネムを流す(なお、この時も「ガルフィー」を着用)。運動着のズボンをブーツカット型にするために裾の内側を縦に切る、とか。

こうして書いてみると「いやいやいや全然不良じゃないやん廊下でエミネム流すとかめっちゃ可愛いやん!」と思うけれど、当時は「関わってはいけない人たちだ!」と思っていた。そういうグループに入っている人が「奉仕活動」などに来た日には、真っ先に「意外!」と感じたりしていたけれど、本来「ガルフィー」と「奉仕活動」にはなんの相関関係もないわけで、「ガルフィーを着ている人は奉仕活動にこなそう」というのは随分バイアスのかかった見方だ。

人間は、脳を効率よく使うために、「あまり深く考える必要のない事柄」や「自分にとって重要でない情報」は、ある程度「自動操縦」的に処理をする傾向がある。最近はやりの「オートパイロット」みたいな感じだ。

ただ、人間の脳は、ハンドルを握っていなくても警告してくれない。自分が偏った思考回路に陥っていることをお知らせしてくれる便利な機能はついていないのだ。自分で陥りやすい思考回路に気づき、気をつけていなければ、事故につながってしまうことがあるかもしれない。

とはいえ、一旦憎いと思ったものの印象を変えるのってすごく難しいなあと思う。感情を表に出さず、フラットに接するってどうやったら上手くできるんだろうか。

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